ペリーよりも早く日本に上陸したアメリカ人
皆様、こんにちは。日本の長い鎖国時代、初めてやって来たアメリカ人は誰でしょうか?
多くの方は黒船に乗ったペリー提督を思い浮かべるでしょう。しかし、その5年も前に日本に上陸したアメリカ人がいました。
その名はラナルド・マクドナルドです。彼の名前はハンバーガーチェーンで有名な名前と似ているため、覚えやすいかもしれませんね。
ラナルド・マクドナルドの冒険の始まり
ラナルド・マクドナルドは日本に強い憧れを抱き、1845年頃から捕鯨船プリマス号に乗り込み、日本上陸の夢を追いかけました。しかし、なぜ彼はそんな夢を抱いたのでしょうか?それには彼の生い立ちと教育背景が大きく影響しています。
捕鯨船に乗り込んだ理由と背景
ラナルド・マクドナルドは1824年、アメリカ合衆国オレゴン州アストリアで生まれました。彼の父はスコットランド出身のアーチボルド・マクドナルド、母はチヌーク族のコアルゾアです。
幼少期から多文化環境で育った彼は、父親の影響で教育に熱心でした。エジンバラ大学卒の父親から基礎教育を受けた後、彼はミッション系のレッドリバー・アカデミーで4年間学びました。
日本への憧れは、子供の頃にインディアンの親戚から「日本人のルーツを持つ」と教えられたことがきっかけです。
1846年に『フレンド』誌に掲載された「クーパー船長日本訪問談」という記事が彼の夢をさらに強くしました。この記事では、アメリカの捕鯨船マンハッタン号が小笠原諸島で救助した日本人漂流民22名を浦賀に帰還させたことが描かれており、これがマクドナルドに日本上陸のヒントを与えたのです。
1845年頃から捕鯨船プリマス号に乗り込み、日本上陸の夢を追いかけました。そして1848年6月、ついにその夢が実現します。
利尻島への上陸とタンガロとの出会い
1848年6月、マクドナルドの夢がついに現実となりました。プリマス号が宗谷海峡を通り、捕鯨基地のあるハワイのホノルルに戻る途中、彼は船長に単身上陸を願い出て許可を得ました。
最初に上陸したのは焼尻島で、ここで2日過ごした後、無人島と思い、噴煙を上げていた利尻島の野塚を目指し到達しました。遭難者を装い、アイヌの人々に救助されましたが、幕府の役人に捕らえられました。
焼尻島については→こちら
マクドナルドを救助したのはアイヌの青年タンガロでした。二人は言葉が通じませんでしたが、口を指さしてタンガロが「クチ」と言うと、マクドナルドは英語で「mouth」と言いました。
お互いに、目を押さえMe=eye、口をKuchi=mouth、耳をMimi=earなど聞き取れたタンガロの言葉、意味などを英語で「mouth」や「eye」と書きました。
その後も、鼻をHana=nose 顔をKao=face とまずは体を使いお互いに手振り身振りから、聞き取ろうとしたり、伝えようとしたり交流を深めていき、マクドナルドは紙とペンを持っていたので書きました。
これこそが、日本における初めての英和辞典ではないでしょうか。
万年雪の鋭くとがった山は標高1712m利尻山です。北海道のお土産【白い恋人】の写真にも使われています。
宗谷、松前、長崎への移送
しかし、彼の冒険はここで終わりではありませんでした。幕府の役人たちは、マクドナルドを宗谷に移送し、更なる取り調べを行いました。宗谷では彼の正体や目的について厳しい質問が続けられましたが、マクドナルドは冷静に答え続けました。その後、彼は松前に送られ、さらに取り調べを受けることになりました。
松前でも同様に取り調べが行われましたが、マクドナルドの態度は変わらず、役人たちは彼の誠実さと知識に感心しました。最終的に、幕府は彼を長崎に送る決定を下しました。長崎は外国人が居住する場所として知られており、マクドナルドはここで日本の歴史に新たな章を刻むことになります。
長崎での拘留と英語教育の始まり
長崎に到着したマクドナルドは、座敷牢での拘留生活を送ることになりました。しかし、彼の温厚な性格が日本人の心を開かせました。特にオランダ通詞の森山栄之助や他の14名の通詞たちは、彼から英語を学びたいと強く願いました。こうして、マクドナルドは日本初のネイティブ英語教師となり、英語教育に情熱を注ぐことになりました。
また、マクドナルドは簡素ながらも初めての英和辞典を作り、日本人に英語の基礎を教えました。それまでは鎖国のためオランダ語が中心であり、英語を学ぶ機会は限られていました。彼の教えは、日本の英語教育の基礎を築いたと言えるでしょう。
ペリー来航と通訳としての森山栄之助
マクドナルドの弟子の一人である森山栄之助は、後にペリー来航の際に通訳として活躍しました。もしマクドナルドとタンガロの出会いがなければ、森山栄之助が英語を学ぶ機会もなく、ペリー来航時にスムーズな会話ができなかったかもしれません。
ラナルド・マクドナルドの遺産と彼が遺した功績
ラナルド・マクドナルドは、日本における最初のネイティブ英語教師として幕末の歴史に大きな貢献をしました。彼が最後に残した言葉は日本語の「サヨナラ」だったと言われています。現在、野塚展望台には彼の功績を称える顕彰碑が建てられており、彼の冒険と友情の物語は後世に語り継がれています。
ラナルド・マクドナルドの物語は、単なる歴史の一部ではなく、異文化交流の大切さを教えてくれる貴重な教訓です。彼の勇気と情熱は、日本とアメリカの架け橋となり、現代の私たちにも多くの示唆を与えてくれます。ぜひ次回の旅行では、彼の足跡をたどってみてください。
まとめ
余談ですが、このお話は少し長いので、稚内空港から始まり、利尻島、礼文島を巡り稚内空港や列車を利用するツアーのお客様にはここまで掘り下げてお話ができません。稚内には稚内のご案内が、利尻島、礼文島にも時間が足りないくらいの沢山の逸話、伝説、歴史が息をつく暇もない程ございます。
これはわたくし個人が思うことではありますが、そのため利尻島、礼文島、稚内市には充実した無料の観光パンフレット用意され、レリーフや建造物には詳細が刻まれています。有料版もございますので歴史好きな方や次回訪れる時の為と、この旅の余韻と共に、お時間のある際に思い出しつつ、ご一読頂ければと思います。
わたくしは要所要所は出来るだけ抜かすことなく、ご案内しますが1つのお話が次の名所まで30分から1時間ほどないと、ここまでの長いお話が出来ないときがあります。
ラナルド・マクドナルドのご紹介をさせて頂くときは、新千歳空港や札幌方面から北上し、羽幌町で天売島、焼尻島をご案内したのちツアーによって臨機応変にさせて頂いておりました。しかし、この話をする機会は数えるくらいしかありませんでした。このブログを通じてもっと多くの方々にこの物語を知って頂けたなら幸いです。
ラナルド・マクドナルドの冒険と彼が果たした役割は、日本とアメリカの架け橋となり、異文化交流の大切さを教えてくれる貴重な教訓です。
今回は利尻島、礼文島が一緒になっている観光パンフレットと羽幌町が天売島と焼尻島の管轄なので両方のパンフレットからラナルド・マクドナルドの部分だけお借りしました。