屯田兵の育ての親:永山武四郎とは?
永山武四郎(ながやまたけしろう)は、薩摩(今の鹿児島県の一部)の出身で、明治戊辰の役で官軍が会津若松城を攻めた時、これに従って大いにその名をはせました。彼は早くから、北海道の守りを強くしなくてはいけないと主張しておりました。
屯田兵制度の誕生とその背景
屯田兵と申しますのは明治7年に設けられた制度で、明治維新の際の廃藩置県によって職を失った士族たちを北海道に移住させて、失業救済と開拓、国土防衛(北辺の警備)に当たらせる一石三鳥をねらった制度です。
※写真や資料は『屯田兵の歴史と琴似兵村の秘密:北海道開拓の一端を探る』でご紹介しております。
永山武四郎の北海道への情熱
明治の初め、ロシアの南下が日増しに強まり、南樺太もまさに奪われそうな状況にあったため、北海道の守りを強くすることを彼は使命と感じていました。政府もまた彼の熱意を知り、明治5年北海道開拓使八等出仕として札幌に赴任させました。
黒田清隆との協力:屯田兵制度の設立
当時の開拓使次官黒田清隆も彼と全く同じ意見で、屯田兵制度を設けることを政府に進言し、ついに明治7年から実施されることになりました。この準備計画にあたったのが永山武四郎です。
西南の役と屯田兵の奮戦
明治10年、故郷の大先輩であり、最も尊敬していた西郷隆盛を中心とする西南の役が起こり、これを討てとの命令が武四郎にも下りました。彼は涙を払って、できて間もない屯田兵を率いて九州に渡り、奮戦し、百姓部隊と軽蔑されていた屯田兵の名を一躍全国にとどろかせました。
平民屯田の開始:永山屯田の誕生
その後、屯田兵の任務は警備よりもむしろ開拓に置くべきだと考え、今まで武士に限られていた屯田兵を一般からも募集することにしました。この平民屯田の初めが明治24年、旭川市永山に入地した永山屯田です。
屯田兵制度の成果と影響
永山武四郎は無人の原野にまず400戸の家を建て、人が住むようになると職人や人夫、商人が入り込み、次第にマチが出来ていきました。昭和36年、旭川市に合併し、現在の永山は上川米作地帯の中心になっています。
永山武四郎の晩年と遺志
永山武四郎は屯田司令官、第二代北海道長官を歴任し、旭川にあった第七師団長を最後に退職しました。30年間に37の兵村を育て、7337戸、約4万人の人々が北海道開拓の礎となりました。明治37年に療養先の東京で亡くなりましたが、彼の遺骨は札幌に葬られました。
屯田兵制度のルーツ:中国とロシア
屯田兵と言いますと北海道独自の制度のように思われるかもしれませんが、「屯田」とは中国から来たもので、約2100年前の漢の武帝が中国の西城地に田卒という名の兵士をおき、その地に駐屯させ外敵を防ぐ「屯田」の設置をしたことが始まりです。
北海道の屯田兵制度の特異性
帝政ロシア時代のコザック兵の屯田兵制度も有名で、ロシア領内の辺地の守備と地方開発にあたっていました。北海道の屯田兵制度はロシアの制度を視察し参考にしたとのことです。
今回は
話がまだまだ続く屯田兵のお話を3回に分けようかと思い写真で語らない仕様になっております。